中島登~中島登~(なかじまのぼり)天保9年2月2日武州多摩郡寺方村生まれ 八王子千人同心であり天然理心流門人 元治元年に入隊するが上洛はせず武州、相州、甲州の情報収集を担当したと言われているが確証はない 慶応3年入隊説もあり 平隊士だが箱館に渡ってからは箱館市中の番兵取締、第二分隊嚮導役(きょうどうやく) 慶応4年4月近藤さんが捕らえられた後土方さんに従い江戸入り。 そして宇都宮で負傷した土方さんに従い会津入りしたとも。 以後函館戦争を戦、明治2年5月15日弁天台場で降伏。謹慎中に「中島登覚書」「戦友絵姿」を残す。 その中で土方さんのことを 「生質英才ニシテ飽迄剛直ナリシカ年ノ長スルニ従ヒ温和ニシテ人ノ帰スルコト赤子ノ母ヲ慕フカ如シ」 と書き残す 戦争終結後は土方家を訪れ「中島登覚書」を残す 「戦友絵姿」は函館博物館五稜郭分館にあります 明治3年放免されて静岡藩(前年に駿府藩から改称)に引き渡される。 その後、箱館新選組で一緒だった大嶋寅雄と再会、勧められて浜松市に住む 葉蘭栽培をはじめ、銃砲店を開業して余生を送る。 新選組の生き残りの中で最も成功した人 明治20年4月2日50歳没 浜松市下池川町の曹洞宗天林寺に墓がある 法号は「隆慶院孝庵義忠居士」 浜松市紺屋町には中島銃砲火薬店がある |